土曜サロン 第154回(2006年5月20日)

姿三四郎と富田常雄

 二〇〇六年五月の土曜サロンは、『姿三四郎と富田常雄』(本の雑誌社)の著者であるよしだまさしさんをお迎えしてお話を伺った。よしださんは探偵小説愛好会「怪の会」の創設メンバーの一人でもあり、また「日本冒険小説協会」の古参メンバーでもあるという根っからの本好きである。この本を書くきっかけもふとしたことで手にした『姿三四郎』があまりに面白かったから。もちろん『姿三四郎』のことは映画や漫画等で知っていたが、この物語がこんなに面白いとは思っていなかった。それが講じて富田常雄にも興味を抱くようになったそうである。

 ところで『姿三四郎』はどのようにして書かれたのか――それは太平洋戦争が勃発した次の年に錦城出版社が四、五人の作家を招いた会合から始まる。その席で、「情報局に褒められるような健全な国民文学を出版したいから、ひとつ書き下ろし小説を書いて欲しい」と持ちかけられた富田常雄が「それなら柔道の創世記を書いてみましょうか」と言ったところ、柔道有段者である梶野悳三から「それはいい」と背中を押され、出版社からも大賛成されてしまったので、書かざるを得なくなってしまった。

 どうして富田常雄が柔道の小説を書くことを周囲は喜ぶのか。それは富田常雄の父が講道館筆頭入門者であり、四天王の一人であったから。ところが、富田常雄の父は、富田常雄が生まれてすぐに柔道布教のためにアメリカに渡ってしまう。おかげで富田常雄が父親と始めて顔を会わしたのは七歳になってからだった。帰国した父親は赤坂に東京体育倶楽部というスポーツセンターを設立し、そこで父親から柔道の手ほどきを受けることになる。小学校六年生の時であった。

 父親に鍛えられ富田常雄はめきめきと強くなっていく。柔道以外のスポーツも得意だったので校内の代表選手に選ばれたりもした。しかし、その一方で雑誌に詩や散文の投稿を繰り返すというスポーツ少年でありながら文学少年でもあるという少々変わったこどもだったようだ。

 やがて大学生になると、家の手伝いをさせられるが、それはいやいやながらだったらしい。稽古の時間になると、読みかけのドストエフスキーを伏せて道場に顔を出して何人か投げ飛ばし、また読みかけのドストエフスキーに戻るという日々だった。アテネ・フランセに通っていたこともあるという。それほどまでの文学好きであるが、作家になろうとは思っていなかった。サラリーマンをしながら好きな文学をやれたらいいぐらいのつもりだった。

 だが関東大震災によって運命は大きく変わる。日本体育倶楽部が消失し、経済的基盤を失った父親から学費の打ち切りを宣言されてしまうのだ。その直前に「少年倶楽部」に持ち込んだ少年小説が採用されたことから原稿料で稼ぐことを知り作家になるが、もともとは純文学志向。生活のために少年少女小説や娯楽小説を書くことに抵抗を感じ、最初のうちは伊皿木恒雄などのペンネームを使っていたが、やがてそれもつまらぬ見栄とさとり、本名の富田常雄を使うようになる。その後、演劇の世界に身を投じたこともあるが、つき物が落ちたかのようにまた創作の世界に戻っていく。しかし創作に専念するようになっても、生活は楽でなかったので、博文館に何度も前借りをしに行った。もっとも前借りを重ねたのは富田常雄だけではなかったが。

 こういう出自であるため、富田常雄は柔道の実録物を山のように書かされていた。それゆえ、最初は『姿三四郎』もあまり書く気がしなかったという。しかし書き始めてみると、編集部の反応がとてもいい。原稿を取りに来た編集部の女の子は続きが待ちきれず、三日とあげずに原稿を取りにやってきたという。生活のため仕方なく書き出した『姿三四郎』ではあったが、編集部の反応も励みとなり、一気に書き上げてしまう。しかし、実はこれが富田常雄にとって初めての大人向けの長編小説。文章にぎこちないところがあり、錦城出版社文芸部員であった詩人の大坪草二郎に原稿用紙が真っ赤になるまで手を入れられる。