土曜サロン 第151回(2005年11月19日)

乱歩と『探偵小説四十年』について

 二〇〇五年最後の土曜サロンは、大衆文芸評論家の八木昇さんを招いて江戸川乱歩の『探偵小説四十年』にまつわるお話を伺った。八木さんは桃源社で『探偵小説四十年』の編集を担当されていた方である。

 八木さんがこの本を編集するようになったのは、「新青年」で連載が始まったときから愛読しており、また乱歩とも昭和二十四年頃からお付き合いされていたので、「宝石」に移った連載が終わった後、思い切って出版の申し込みをしたことからだという。そのとき乱歩から「よい本にしてくれるなら」という条件で了解を得られた。断られるかもしれないと思っていたので嬉しかったそうだ。

が、本にしようと思って読み返すと量が多い。毎月の連載では気が付かなかったが、実はかなりの分量だった。もっとも原稿は前から本にまとめたいと考えていた乱歩によって既に見直しされ始めており、本に載せるのに不要と思われた箇所は削除されていた。ただし書き加えているところもあるので、やはり多い。これを一冊に収めるのはどうしたらいいのか――。苦肉の策として、一頁を三段組にし、かつ活字のポイント数も他の本より小さめにし、行間も読みにくさを感じさせないぎりぎりのところまで詰めることにした。これで四百頁ぐらい。なんとか収まりそうな目処が立つ。

 しかし、まだ写真があった。できるだけ多くの写真を入れたい、とくに亡くなられた作家の写真は必ずというのが先輩作家を大事に思う乱歩からの強い要望だった。とはいえ写真を含めると、どのくらいになるのか――。なんと計算好きの乱歩は、全ての写真の寸法を一枚ずつ測って面積を計算し、それを頁数に換算されてきた。このときのメモを見せていただいたが、一枚の紙にびっしり書き込まれた計算式に乱歩の几帳面さがうかがえて興味深かった。なお、その計算によると、写真は四十頁ぐらいだったとか。

 でも写真はサイズがそれぞれまちまちであるし、なによりキャプションを必要とする。また写真とキャプションの位置についても乱歩から指示されていた。若い頃、印刷の仕事にたずさわったことのある乱歩は、活字や製版のことにも詳しく、それだけ指定も細かかったという。これにも在りし日の乱歩のお姿を彷彿させられた。

 こうして本文が整いつつあった頃、ゲラを見た乱歩からまた別の注文が――。章の終わりの空白がもったいないので埋めたいという。ただでさえ三段組で活字がびっしり詰まっている感じがするので、空白があるほうが息抜きになるのではと八木さんは申し上げたが、一度は納得してくださったものの、やはりもったいないとおっしゃる。そして自ら空白の部分を測って、このスペースならこのぐらいの文章が載せられると計算されてきた。この本はできるだけ活字で埋め尽くしたいというのが乱歩の思いだったそうだ。ということで、短文が載せられそうな余白には、ご自身でお選びになられた章にふさわしいエッセーを載せることになり、これでようやく本文が決定。

 ちなみに乱歩がこの本に懸ける情熱はかなりなものだったそうで、この本を編集している年に、実は入院されているのだが、入院ぎりぎりまでゲラをチェックし、速達で送ってきたとか。『探偵小説四十年』以降にも全集を出されてはいるが、晩年に最も熱心だったのはこの本ではないかと八木さんは振り返えられる。なお編集作業は既に出版記念会の日取りも決まり、その準備もしていたので日にちを遅らせることは許されないという厳しい状況だったそうだ。

 さて本文の次はということで、まず扉。ここに貼雑年譜の書影を使われてはと八木さんが提案したところ、その案がいたくお気に召され、ご自身でレイアウトを示された。今でこそよく知られている貼雑年譜だが、当時は知る人が少なかったという。しかし乱歩にとってはとても愛着のある本だったのだ。示されたレイアウトを八木さんが少し変更し、後は直筆サインを入れることで扉は決定した。

 扉の次は装丁。これは乱歩がお好きだった文学史の本にちなまれたとか。函もその本のようにシンプルに仕立て「探偵小説四十年」と紙を張った。

 こうして出来上がった『探偵小説四十年』という本を、これは当時の出版記念会のスピーチでも述べられたそうだが、八木さんはこの本自体が乱歩のひとつの作品であるとおっしゃられる。確かに細部に至るまでのこのこだわりは作品と呼ぶに値すると深くうなずかされた。

 なお現在は沖積舎からも復刊されている『探偵小説四十年』だが、来年光文社文庫から完全版が出るという。こちらは初出時を元にしているそうなので、桃源社やその他の版と読み比べてみると、いろいろ違いが分かって面白そうだ。