土曜サロン 第148回(2005年5月21日)

英仏幻想ミステリをめぐって

 2005年5月の土曜サロンはゲストに翻訳家の垂野創一郎さんをお迎えして、ドイツとフランスの幻想ミステリについてのお話を伺った。  垂野さんは3月に晶文社から『最後の審判の巨匠』というオーストリアのミステリの翻訳を出されたばかりであるが、それ以前にも同人誌の形でドイツとフランスの幻想ミステリを手がけており、紹介も翻訳も少ない古い年代の幻想ミステリについて造詣が深い。

 まずは垂野さんが翻訳されたばかりの『最後の審判の巨匠』について解説していただいた。これはバウチャーが賞揚し、ボルヘスが惚れこみ、日本でも鮎川哲也、都筑道夫にもエッセイで言及されたという伝説的な異色作。すでに新聞や雑誌等でもいくつか書評されているが、どれもその異様な雰囲気を高く評価されているという作品である。もっとも、ある書評ではミステリの範疇に含めるのは酷ではないかといわれたそうだが。それに関しては、この作品はまだミステリのフォーマットが固まっていない時代のものなので、普通のミステリとしては違う方向に逸れてしまうのはしょうがないかもしれないとのこと。ちなみに、この作品が書かれた頃、日本では乱歩の『二銭銅貨』が、イギリスでは『矢の家』と『赤い館の秘密』等であり、そしてクリスティがデビューした年代。むしろ、まだヴァン・ダインもクイーンも登場していなかった時代にこういうミステリが書かれていたことに驚かされてしまう。

 なお、この作品が書かれた頃のドイツではミステリはどんな位置付けにあったのかについては、1925年に執筆されたジークフリート・クラカウワーの『探偵小説の哲学』という本でその一端が伺われるそうだ。ただし、この本の著者は社会学者なので、トリックやロジックはあまり重要視しておらず、追求しているのは推理の部分のみ。大雑把な見方に思えるが、しかしこういう本が執筆されるぐらいなのだから、ミステリは既に根付いていたといえるかもしれない。

 それでは、ミステリがまだ未分化だった時代にはどのような作品があったのだろうか。垂野さんにいくつか紹介していただいた。一番手はモーリス・ルヴェル。戦前、新青年で田中早苗氏によって翻訳された『夜鳥』でよく知られたフランスの作家である。『夜鳥』は東京創元社から文庫化されているので、ご存知の方も多いだろう。

 ちなみに、ルヴェルというとコントや短編のイメージが強いが、垂野さんによると長編にも面白い作品が多いとか。いくつか紹介していただいたが、とくに個人的に心惹かれたのは『恐怖』という作品。夢見がちな主人公の青年が怪しげな三人組に後に出くわし、つい後を付けると死体を発見してしまうが――というもの。ここまではまだ普通なのだが、ここからの展開がすごい。なんと自分の持ち物を落として犯人になってしまおうとするのだ。その後とんでもない展開をしていくとか。これ以外の長編も奇想ミステリとしかいいようがない作品があり、どれもあらすじを聞いているだけでも読みたくなってしまう。垂野さんは短編ではなく長編も紹介されてほしいとおっしゃるが、これには同じ思いをする人が多いに違いない。

 次はフェリックス・ヴァロットン。ジュール・ルナールの挿絵やバルザック、エドガー・アラン・ポーのポートレーロで有名な画家だそうだが、生前密かに小説を書いていたとか。そのうちのひとつは幻想ミステリだそうで、これもあらすじを聞いただけでゾクゾクするような内容。タイトルを直訳すると『殺人者的な一生』。パリの警視総監の元に届いた手記から事件が始まるのだが、殺人者の視点から人がバタバタ死んでいく様を綴っていくというもの。これ以外にもミステリ的な作品があるそうで、こちらもあらすじだけで読みたくなってしまう。

 次がモーリス・ルナールという日本ではほとんど紹介されていない作家がフランスではジュール・ベルヌの後継者と評されているほど知られた存在だとか。作風は一言で言うと、海野十三。ああいう無邪気な残酷趣味にあふれているそうである。中でも『ベルヌ博士』という作品は交霊術によってタイプライターに霊を憑依させ、そのタイプライターが物語を紡ぎだすというもので、これもまたあらすじだけでゾクゾクさせられてしまう。ルナールは他にも『彼』という作品があり、こちらは本格ミステリに近い作品だとか。