土曜サロン 第145回(2004年11月19日)

「コミック最新冗報」

 子供の頃、マンガを読んでいると、周囲の大人から眉をひそめられた。マンガじゃなくて、ちゃんとした本を読みなさいと説教されたこともある。その頃はマンガに夢中になれるのは子供のうちだけと思っていたけれど、分別盛りの歳となった今でもマンガは好きで読み続けている。そうして長年マンガを読んでいると、昔ならありえないような内容、表現に出っくわして驚かされることが多い。一体今のマンガはどのようになっているのだろうか。ということで、2004年最後の土曜サロンは、漫画家の巴里夫先生をお迎えして、マンガの現況について伺った。

 巴里夫先生は少女マンガに関わってもう半世紀近いそうで、現在も編集コンサルタントとして活躍されている。ところで、男性である巴里夫先生がどうして少女漫画家になられたのか。先生は子供の頃から絵や漫画を好きだったけれど、生まれ育った京都では絵を描くのはダメな仕事のように思われていたので、普通の大学に進学された。しかし、絵を描く事を思い切れずにいたときに、貸本マンガを描くとお金になると聞き、学費稼ぎのためもあって出版社に作品を持ち込んだ。そのとき、女の子向けのマンガを描いてほしいといわれ、引き受けたのが、マンガとの関わりの原点だそうだ。

 当時、大学出の初任給が一万円ぐらいなのに、マンガの原稿料は一万二千円。それで一ヵ月半に一冊のペースで描かれるようになったが、この収入なら職業漫画家というのもいいかもしれないと決心した矢先に、なんと出版社が倒産してしまった。それではと、大学を卒業する前に東京に出てこられ、いろいろな出版社に原稿を持ち込んでみたが、どこでも断られてしまう。

 苦労の末に、貸本屋さん向けの出版社である若木書房で、話が面白そうだからということで、ようやく原稿を買ってもらえた。そのとき、社長から「あなたたち大阪の人間は絵も話も泥臭い。それでは東京では生きていけない。まず、ちゃんとしたペンネームをつけなさい」と言われ、巴里夫というペンネームにされた。なお、由来は当時ハリウッドを聖林と表記していたので、ではハリウッドに対抗してパリにしよう、男だから夫をつければいいだろうということだそうだ。

 こうして若木書房で作品を描かれるようになったが、やがて八年ぐらい経った頃、いつまでもこのままでいいのだろうかと悩み始めたときに、出版社からの要請もあって、明るいユーモラスなものを描いてみたら、これが大当たり。自分でも描いていて楽しく、こどもの読者からの評判もいい。そして、「ごきげん」シリーズというのを月に一回出すようになったが、二年ぐらい続けていくうちに、貸本業界がどんどん悪化してしまった。

 しかし、幸いなことに人気のある作品を描いていたので、その評判を聞きつけた集英社の「りぼん」と講談社の「なかよし」の編集部からスカウトされる。その中で一番熱心だった「りぼん」に描くことになり、専属契約を結ぶが、なんとその契約は十三年にも渡ったそうだ。そうして十三年間やっていくうちに、後輩も増えていき、そろそろ少女まんがから離れようかと考え始めた頃、会社側から今度は書き手から作り手に回らないかと提案され、それが続いて現在の編集コンサルタントとなられた。

 ところで、マンガ業界は受けてなんぼ、受けない奴はただでもいらないという厳しいところだが、売れっ子になると大変過酷な生活が待っている。先生自身も経験されたことだが、徹夜が三日続いて終わったら三日寝込んで、ようやく体調が元に戻ったかなと思うと、また次の締め切りが迫ってくる、という生活の繰り返し。もちろん漫画家に付き合う編集者もボロボロになるそうで、タクシーで帰ろうとして車内で熟睡し、いくら起こしても目を覚まさない。困り果てた運転手さんがまた会社まで送り戻してしまった例もあるとか。

 とにかく忙しくてきつい仕事なので、勢い漫画家は消耗品となり、次から次へと新人を生み出していかないと追いついていけないというのが現況のようだ。しかし、そうはいってもなかなか有望な新人は現れない。投稿スクール等で有望そうな人材を見つけると、なんとか育てようとするものの、最近はアマチュアで活躍できる場があるせいか、プロになりたいという意気込みの若者は昔に比べると減ってきているそうだ。あと表現方法も大きく変化している。今の志望者はマンガを描くのにマンガしか読まないので、記号化された表現になってしまうことが多い。それをどう導いていくか――指導する側の悩みは尽きない。

 ところで、現在巴里夫先生の作品はほとんど読むことができない。今のこども達にも読んでほしい作品ばかりなのに復刊の予定もないそうである。とても残念なことだ。