映画鑑賞ノート(2003/9-10)

『マッチスティック・メン』(2003米)

ニコラス・ケイジってあまり好きな役者じゃなかったけど、この芸達者ぶりにはすっかり脱帽してしまった。もうさすがとしか言いようがない。精神分析医の診察で見せるチックな表情なんてあまりにすばらしさに大笑いしてしまったもの。ストーリーは異常なぐらい潔癖症の詐欺師の元へ昔別れた妻との間に生まれた娘が訪ねてきて…というコメディ。詐欺師の親子といえば『ペーパー・ムーン』だが、それに比べると歯切れがあんまりよくないなあと思っていたら見事引っかかってしまった。うーん、これはなかなか。後で知ったことだけど、原作は『さらば、愛しき鉤爪』『鉤爪プレイバック』のエリック・ガルシアだとか。そういえば映画の仕事もしていたんだっけ。それにしてもサム・ロックウェルの「根っからの小悪党体質」(by王さま)には深くうなづいた。コイツおそらくロクな死に目に会わないんじゃないかな。いや、案外図太く生き抜いたりして。(2003/10)

『アララトの聖母』(2003カナダ仏)

1915年にトルコで起きたアルメニア人虐殺事件を亡命アルメニア人画家ゴーキーの作品と絡め、かつゴーキーの研究者の家族とその周囲に人間達を通じて虐殺の事実を再確認するというかなり凝った構成のドラマ。しかし、あまりに多くのことが描かれていて一口に語りきれない。ゴーキーはなぜ『芸術家と母親』を未完成のままにしたのか。ゴーキーの研究者の二番目の夫はなぜ自殺したのか。ストーリーにはいろいろと謎が満ちているのだが、最大の謎はどうしてトルコがアルメニア人を虐殺しなければならなかったのかであろう。民族大虐殺といえば真っ先に思い浮かぶのはナチスドイツによるユダヤ人絶滅だが、ナチスドイツはこのアルメニア人虐殺を教訓にしたらしい。もちろん全てのトルコ人はアルメニア人を憎んでいたわけでなく、これもおそらく当時の政府の一部による暴走なのかもしれないが、今でもこの大虐殺を否定しているという姿勢がアルメニア人を苦しめているように思える。認めたからといって傷は癒えないかもしれないが、過去の過ちを認めてそこからの新しい発展を望んでやまない。日本でも南京大虐殺はなかったと主張する人々がいるが、それよりもこういう愚かな行為は決してするまいと考えてほしいものだ。ところで、シャルル・アズナヴールもアルメニア人だとは知らなかった。名前といい出演作といい、てっきり生粋のフランス人だと思っていたのでびっくりした。(2003/10)

『クラブ進駐軍』(2003日)

松竹の覆面試写会で観たもの。阪本順治といえば、この間の『ぼくんち』が全く肌に合わず、なんとなくイヤな予感はしていたのだが、見事的中してしまった。一体いつの間にこんな駄作ばかり撮るようになってしまったのか。初期の頃は面白かったのになあ。一番の不満は脚本。自分の名前を名乗るときにいちいち漢字まで説明する人間がいるだろうか。それ以外にもクサイ台詞のオンパレードでほとほとにこの人のセンスを疑ってしまう。せめて演出のテンポが合っていればもう少しなんとかなったかもしれないが、これも間延びしていてダメ。とにかくかったるいの一言に尽きる。思うに説明が過剰なのだ。だから観ていて退屈する。もうすこし見る側の想像力を刺激させて欲しいものだ。あと終戦直後が舞台にも関わらず、あの時代の空気が一切感じられないのも不満のひとつだった。(2003/10)

『10億分の1の男』(2001スペイン)

飛行機事故で生き残った男がその運の強さを見込まれて史上最強の強運の持ち主と対決させられるサスペンスもの。強運とは周囲にいる人間の運を吸い取る力という考え方が面白い。確かにギャンブルでも古本でも(これもある意味ギャンブルか?)でもめぐり合わせのよい人間と悪い人間がいるから、あり得るかもしれないと思わず納得してしまった。強制収容所で生き残るという過去を持つ史上最強の強運の主をマックス・フォン・シドーが演じているが、これがまさにハマリ役。強制収容所での体験はそれほど語らないのだが、それでもずしりと重みを感じるのはこの人ならではだ。その反面、残念だったのが女刑事役のサラ。彼女も実は強運の持ち主なのだが、そのことがあまりストーリーに生かせてないように思える。ぜひとも対決してほしかったのに…もったいない。とはいえ新人監督による劇場長編デビューとは思えないほどエンターティメント性あふれる作品だった。(2003/10)

『ミスター・デザイナー』(1988ソ連)

アレクサンドル・グリーンの作品をモチーフにした幻想的な怪奇映画。どことなくフェリーニの『世にも怪奇な物語「悪魔の首飾り」』を思い起こしてしまう。といってもあれほど怖くはないが。この作品は卒業制作だそうだが、そう意識してみると場面によってロック風な音楽が使われるあたりに監督の若さを感じた。主演のヴィクトル・アヴィーロフの独特な風貌がとても印象的。まさに怪奇映画にうってつけ顔立ち。マリア役のアンナ・デミヤネンコの瑞々しい美しさもいい。ストーリーはさほど難解ではないが、ラストが少々分かりにくい。何度も同じような場面を使うことにどういう意味があったのだろうか。芸術性あふれるというより、芸術性を高くしたいという志が見える作品だが、全般的に雰囲気はとてもよかった。(2003/10)

『フリークスも人間も』(1998露)

こういうのをアート映画というのだろうか。あまりの作風の違い過ぎて、とても『ロシアン・ブラザー』と同じ監督の作品とは思えない。ロシア人は極端から極端に走る傾向があるというけれど、こういうのを見ると事実なんだなあと思ってしまう。

作品はセピアカラーな色調と無声映画のようなナレーションでレトロな雰囲気を醸し出しているものの、エイセンシュテインのような格調高さは微塵も無く、むしろアキ・カウリスマキを思いっきり俗悪にしたような感じ。薄幸のヒロイン、リーザをカネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』『ぼくら、20世紀の子供たち』のディナラ・ドルカロワが演じているのが感慨深い。なんといっても!』『ぼくら、20世紀の子供たち』では『動くな、死ね、甦れ!』の主演だった少年(元々ストリートキッズだった)が凶悪犯となって収監されている先を訪ね、「私は女優になるために勉強しているのよ」と夢を語っていたのだから。しかし、よもやこういう作品で再会するとは思わなかった。彼女は自分の望んだ道を歩めて幸せなのだろうか(この役柄ではそういうこといいにくいような…)(2003/10)

『呼応計画』(1932ソ連)

これが今回のロシア映画祭で観ているのが最もキツかった作品。トーキー初期作品だからフィルムの状態が悪いのはしょうがないとはいえ、場面によっては字幕が全く付かないのには正直参った。こちらはロシア語を一切解さない身なのでどういうシーンなのか理解できず、ストーリーを追うに大変苦労してしたからだ。内容は五ヵ年計画を賛美したもの。技術が足りない部分は精神力で補えをいう考え方が見え隠れして精神論嫌いな私にはどうもきまり悪い。ただし老職工バブチェンコの姿はその頑固さが日本の職人に相通じるものがあっていい。朝からウォッカを呑むというあたりも人間味がある。しかし朝からウォッカか……豪快だ(笑)(2003/10)

『ロシアン・ブラザー』(1997露)

『ベアーズ・キス』で気に入ってしまったセルゲイ・ボドロフ・ジュニアの出世作。この作品で一気に知名度が上がったそうだが、なるほどなあと思う。とにかくひたすらカッコいいのだ。

作品は兵役を終えた青年ダニーラは兄を頼ってサンクト・ペテルスブルクへ行くと、兄はプロの殺し屋になっていた。兄の仕事を手伝う(正確には代行する)うちに、彼もマフィアと深く関わりあうようになっていくというもの。マフィアが登場するだけあって殺伐とした場面が多いのだが、不思議と嫌悪感は感じない。それはダニーラの「弱いものいじめはしない」という姿勢によるのかもしれない。その反面フランス人に向かってアメリカの悪口を言ったりするのだが(なおフランス人をアメリカ人と混同している)。まあ、ここら辺は現在のロシア人の鬱屈ぶりを表しているのだろう。というより、こういう場面があったからこそロシアで大ヒットしたのかもしれない。それにしても圧倒されたのは、ダニーラが引き金を引くとき少しもためらいを見せないこと。殺す相手が悪人ばかりとはいえ、この徹底したスタイルはある意味スゴイ。この監督はアメリカ映画に深く影響されたというけれど、この感性はむしろヨーロッパ系ではなかろうか。ストーリーに若干ご都合主義は感じたけど、予想以上にスタイリッシュでエンターテインメント性に富む作品だった。(2003/10)

『十月』(1928ソ連)

1917年というのはロシアにとってまさしく激動の一年だ。中でも10月はボリシェヴイキが政権を手中し、ここからソビエトという国が始まったと言えるかもしれないから。エイセンシュテインはこの激動の時代をものすごくドラマチックに伝えてくれる。この躍動感のすごさは本当にすごい。私は共産主義もレーニンも肯定しないが、それでもこの映画を観ると革命への血がたぎりそうになる。何の予備知識を持たない人間にすら、ここまで感動させるのだから、エイセンシュテインはまさしく真の天才だと思った。内容的にはトロッキーを省いたという弱さはあるようだけど、それすらもあまり気にならない。今回観た版は後にカットされた部分を復元し、ショスタコーヴィチの音楽を加えたものだが、またこの音楽が作品をよりいっそう盛り立てていた。(2003/10)

『ロマノフ王朝の最後』(1974ソ連)

ソ連時代の作品なのでラスプーチンはさぞ憎々しく描かれるのだろうと思っていたら、そうでもないのが意外だった。それはニコライ二世とアレクサンドラ皇后についても同じで、病弱な息子を思いやる姿は専制政治の統治者とは程遠い。確かにラスプーチンはロマノフ王朝崩壊の原因のひとつであったけど、彼が諸悪の根源というのではなく、むしろ彼を利用しようとする人間たちの愚かさが崩壊を招いたのではなかろうか。途中で出てくる貴族たちの自堕落さがそれを物語っているように感じる。それにしてもこの退廃的なムード、とてもソ連時代の作品とは思えない。まるでヨーロッパ映画のよう。完成してから公開されるまで期間があったというが、そもそもこういう作品を制作されたこと自体が驚きだ。(2003/10)

『ヨハン・シュトラウス』(1971ソ連)

ヨハン・シュトラウスというとウィーン・フィル・ニュイヤーコンサートをまず思い出してしまう。そのせいかヨハン・シュトラウスには明るく華やかというイメージがある。(ただし父と息子とごっちゃになっているが。)この作品はヨハン・シュトラウスがロシアで演奏活動をしていた時期を取り上げていたもの。名門貴族令嬢との悲恋をメインに描かれている。悲恋と言ってもあまり悲壮感はない。ヨハン・シュトラウスという人は前向きに困難を乗り越えようとしているからだろう。あと恋愛面に関してもワーグナーやチャイコフスキーのような背徳性がないので妙に健全に映る。穿ち過ぎかもしれないが、こういうところが音楽性にも反映されているように感じた。(2003/10)

『美わしき幸せの星』(1975ソ連)

デカブリストの乱に関わった人々とその妻たちの姿を描いた歴史超大作。ネクラーソフ「デカブリストの妻たち」をかなり忠実に映画化しているが、大きな違いは近衛将校アンネンコフとその婚約者ポリーナのエピソードが付け加えられたことだろう。作品ではこのポリーナとトルベツコイ公夫人とヴォルコンスキー公夫人の三人の妻たちを中心として描かれている。どの夫人もそれぞれに胸を締め付けられるような展開を見せるのだが、一番印象的なのはやはりポリーナ。アンネンコフから結婚を申し込まれても身分違いで蔑まれるのが耐え切れないという理由から断り続けてきたのに、アンネンコフが投獄されるや否や即座に駆けつけて結婚の約束をする。そして皇帝に直訴してシベリア行きの許可を取り付け(途中同行しようと駆けつけるものの一足違いで追いつけず泣き崩れてしまう)最後はなんとシベリヤで獄中にいるアンネンコフと結婚するのだ。なんて激しい情熱だろうか。結婚しても夫と会えるのは週一度僅かな時間のみというのに。何があろうと絶対に諦めはしないというこの意志の強さにはひたすら圧倒された。それだけにラストの妻たちが夫の獄舎を見つめる姿は悲しい。ところで、この作品にもインノケンティ・スモクトゥノフスキーが出演していていて、相変わらずの芸達者ぶりを拝めたのは嬉しかった。(2003/10)

『冬のチェリー』(1985ソ連)

『アンナ・カレーニナ』の後の上映なので、つい不倫映画二本立てと連想してしまった。ソ連では大ヒットしたというメロドラマ。シングルマザーのヒロインが幾人かの男性と巡り合うという幸せ探しな話。ちなみに「冬のチェリー」とは季節外れのさくらんぼうでも瑞々しくなれるのよということから来てるらしい。ずっと付き合ってきた所帯持ちの男性との付き合いに疲れてきて友人夫妻のところで知り合った二人の男性と交際を始めるが、一人は厳しい現実に早々に退散する。もう一人はエリートで優しくて頼りがいがあるという理想的な男性。どう考えてもこちらに転ぶのが普通だと思うが、それだとドラマにならないのか、結局ヒロインは一度は切れた筈の不倫相手の所へ戻ってしまう。率直に言ってこの選択には疑問を感じずにいられない。せめてエリート男性に少しでも嫌な部分があるなら納得もできるのだが。ということで個人的にはこのエリート男性に同情した。これだと女性不信になるんじゃなかろうか。うーん、かわいそうに…。(2003/10)

『アンナ・カレーニナ』(1967ソ連)

この作品で最も忘れがたいのは冒頭の「幸福な家庭は・・・」という言葉だ。何不自由ない生活を営んでいた人妻がふと出会った男と恋に落ち、全てを捨てて恋に準じるもののやがて崩壊していくという有様はストーリーだけ追えば単なる恋愛小説だが、それだけじゃないのがこの作品の深さである。それにしてもアンナとキティの違いはどこにあるのか。選んだ男の差なのだろうか。確かにウロンスキイの生き方はレーヴィンと比べると享楽的だ。もしその違いがアンナを不幸に追いやった原因なら、トルストイはなんて禁欲的なのだろうか。レーニンが愛読した理由もなんとなくうなずける。確かにこれは恋愛小説でなく社会小説だ。

ところで肝心の映画のほう、風景風俗描写はさすが本場ものと思ったが、主演女優が……。以前読んだ映画評論の本で「主演女優のひげが気になる」とあったけど、言われてみると確かに産毛が濃い。いくら美人と言われてもあれでは色消しだ。米版ではグレタ・ガルボが、英版ではヴィヴィアン・リーが演じているので尚更見劣りしてしまった。(2003/10)

『外套』(1960ソ連)

冒頭のつぶらな瞳の赤ん坊が父親と同じ名前を付けられた場面から始まるこの物語は最初から最後まで強烈な風刺精神に満ちている。もともとゴーゴリというと社会制度を痛烈に皮肉った作品というイメージが強いけど、これも相当強烈な話だと思う。アカーキーは真面目であるけどいつまで経っても浮かばれない小役人で職場でもまるで小学生のようなイジメに遭っている。外套はすりきれていて新調したいけどお金がない。副業で代書屋を始めてようやく付いたお客さんからは代金をもらえずと踏んだり蹴ったり。不運もここまでくると笑うしかない。ということで、この映画では徹頭徹尾アカーキーの不運をユーモラスに描写している。だからこそ最後がラストの高笑いが強烈に残るのかもしれない。しかし身につまされる話だった。(2003/09)

『ドフトエフスキーの生涯の26日』(1980ソ連)

『罪と罰』の後に続けてみたので、まるで楽屋裏を見ているようで楽しかった。このときのドフトエフスキーはまだ『罪と罰』を書き上げてなかったらしく、行く先々で続きはどうなるのかを聞かれている。悪徳出版業者との契約の問題で期限内になんとしても小説を書き上げなくてはならないのだが、それが果たして間に合うのかを所々に執筆中の『賭博者』の場面と絡めてスリリングに物語を盛り上げていく。やがて妻となる若い速記者の助けを借りてどうやら期限内に間に合わせられるのが、『賭博者』の悲劇的な終りと対照的だ。それにしてもドフトエフスキーは貧乏の描写がとてもリアルなのはこれだけ苦しい状況にいたせいもあるのだなということをこの映画で改めて感じた。(2003/09)

『罪と罰』(1970ソ連)

正直言ってこれぐらい感想をまとめるのに苦労した作品もない。とてもじゃないが、私ごときがドフトエフスキーに何を言えようか。映画一本観たぐらいではこの複雑な作品の入口に立ったにしか過ぎないということをひしひしと感じた。それでも分からないなりに面白かった場面は多い。とくに予審判事とラスコーリニコフの駆け引きの場面などは今でもTVの警察ドラマで使われそうなぐらい緊張感あふれていてミステリ好きにはたまらなかった。もしかしたら今のミステリでもここまで描いた作品はそうはないかもしれないと思うほど。つくづくドフトエフスキーは偉大だ。ちなみに判事役はインノケンティ・スモクトゥノフスキー。この間『ハムレット』で若き姿を拝んだばかりなのでとても嬉しかった。(2003/09)

『死者からの手紙』(1986ソ連)

核で滅びつつある世界の姿を描いたSF作品。ボリス・ストルガツキーが脚本に加わっているだけあって全体に漂う雰囲気はかなりペシミステイック。しかし、こんな状況でも闇市はあるし、お役人は杓子定規だし、細かいところが妙にリアルだ。ここら辺の感覚がまさにロシア人だなあと思った。あと監督はタルコフスキーに師事していただけあって『ストーカー』と思い起こさせるような場面が多い。脚本も同じストルガツキーだし、共通するものが多いから当然なのかもしれないが。

いろいろと印象深い場面が多くて全てを語れないが、子供たちに希望を託すラストはまさしく感涙もの。久しぶりに泣けてしまった。それにしても核を取り巻く世界の状況は1980年代から全然変わってないんだなあ。これもある意味泣ける事実だ。(2003/09)

『インファナル・アフェア』(2002中国)

マフィアから警察へ潜り込んだ男と警察からマフィアに潜入した男の対決を描いたものだが、対決といってもどう見ても潜入捜査間のほうが分が悪いような気がする。だって警察側で彼の身分を知るものはごく僅かで一般的にみればただのチンピラにしか過ぎないのだから。実際、二度も逮捕されているし、絶えず緊張を強いられていて夜も眠れない。つくづく損な役目だ。でもこの因果な任務にトニー・レオンがよく似合っている。かっての上司の死を見つめる場面なんてもう・・・実にいい表情だった。まあ、これは惚れた欲目もかなり混じっているのだが(笑)。一方のマフィア内通者のアンディ・ラウもまたクールな印象で演じきっているのがよかった。それにしてもこのタイトルはなんでこういうものにしたのだろうか。これなら原題のままのほうが雰囲気に合っていたように思えるのに。(2003/09)

『閉ざされた森』(2003米)

本格ミステリー映画ということで期待しながら観たのだが、残念ながら今ひとつ。そもそも本格ミステリーと聞いてしまったのがよくなかったのかもしれない。こういう映画はやはり何の予備知識も無しに観たいものだ。どんでん返しは確かにすごい。いくつか唸ってしまう場面もあった。しかし、あまりに性急すぎる。もう少しテンポを落として観る側に考えさせる時間が欲しかった。あとこのラストもちょっと趣味じゃないなあ。今までの緊迫感が一気に薄れてしまったもの。後日観たという友人が「まるで戦隊ものみたい」との一言にはまさしくその通りと大笑いしてしまった。(2003/09)

『ライフ・オブ・デビット・ゲイル』(2003米)

新聞のエッセイでかなり好意的に評されていたので期待しながら観たのだが、残念なことに私はイマイチであった。一番不満な点は主人公の経歴が生かされてないこと。この主人公はバリバリのインテリであるために事件が大々的に話題になったと思うのだが、この描写ではとてもそう思えない。人間としてあまりに愚かで弱すぎる。そもそも大学を追われるきっかけとなったレイプ事件自体、主人公の弱さの表れだとしか思えない。あの事件の発端のとき、どうして破滅を知りながらそういう行動をしてしまったのか…このあたりもう少し心理的場描写が欲しかった。そうすれば主人公への見方が深まり、後の事件でも何故という思いが強まったかもしれないのに…。最終的には個人的な好みの問題かもしれないが、とにかくこの出来では私は不満。設定がよかっただけに残念である。(2003/09)

『フランツ・リスト-愛の夢-』(1970ソ連)

音楽映画での演奏は単なるBGMではないと思う。だって、すばらしい演奏が流れると、それだけで画面がぐっと引き締まるのもの。この映画でもリストの演奏はシラフとリヒテルという二大名ピアニストが担当しているので演奏が流れる場面では何度もうっとりした。とくに圧巻だったのはリストとタールベルグの対決の場面。なんとシラフが一人で弾き分けたとか。意識して聴いていても全く分からなかった。なんてすごいのだろうか。あと主演のイムレ・シンコヴィッチもすばらしかった。風貌もリストによく似せていたし、ピアノを弾く場面でも本当に演奏しているのではと思わせるほど違和感がない。今までリストについては超絶技巧ぐらいしか知らなかったのだが、この作品のおかげでイメージが変わった。(2003/09)

『青い鳥』(1976米・ソ連)

米ソ合作であるが、監督もメインキャストもハリウッド勢で固めてあるのでアメリカ映画としか思えない。ただし初めての合作映画ということでキャスティングは豪華。リズ・テーラーにエバ・ガードナー、ジェーン・フォンダと夢のような取り組み合わせである。監督もジョージ・キュカーだ。ソ連らしさは当時の新進プリマのナジェージダ・パブロワと群舞のレニングラード・バレエ団で表されていて、さすがと唸らせるほどレベルの高い踊りを披露してくれる。それにしても、この作品でのリズ・テーラーの演技はなんだか妙に仰々しかったような…。ミュージカルだからか、子供向けの作品だからなのかは分からないけど、とても違和感を感じてしまった。それとも私がロシア映画を観続けているせいでロシア人俳優の動きに馴染んでしまったからだろうか。(2003/09)

『モスクワを歩く』(1963ソ連)

ソ連というと、どうしてもマイナスのイメージが付きまとうのだが、それだけじゃなかったんだなあということをこの作品で遅まきながら知る。1960年代というと戦争のダメージからもう立ち直った頃だろうか。まあ政治的にはいろいろと暗い面も多かったろうけど、一般市民とくに若者達の生活は西側の国とあまり変わらないぐらい明るい。物資もそれなりに豊かそうだし(もっともこれはモスクワのような都市部だけかもしれないが)これなら西側とあまり変わらない水準だったのかもしれない。

それにしてもなんて瑞々しい作品だろうか。オープニングの踊る女性から地下鉄のラストシーンまで観ている側の心も弾ませてくれるような楽しさに満ちている。とてもソ連の作品を思えないほど洒落たセンスだ。ちなみに主演はニキータ・ミハルコフなのだが、びっくりするほど若い。このとき若干19才だったとか。作品だけを観ていると、そう古びた感じはしなかったけど、ミハルコフの今の姿を思うと月日の流れのをしみじみと感じてしまう。(2003/09)

『チェバーエフ』(1934ソ連)

実在したパルチザンのチャバーエフをモデルにした小説の映画化。ソ連で長いこと人気のある作品だったとか。なるほどこれは国民的に愛されるのが分かるような気がする。ややこしい理屈を抜きにして面白いのだ。とにかく人物造形がいい。チャバーエフの短気で怒りっぽく服装にだらしないところなど一般的な英雄とは違い、とても人間味にあふれている。また脇の人物達もそれぞれしっかりと描かれているが、中でも白軍の将軍の従卒が抑圧され続けてきた人間の姿を象徴しているようで印象的だった。(2003/09)

『戦争のない20日間』(1976ソ連)

休暇をもらった従軍記者兼作家の姿を描いた中年版「誓いの休暇」。もっとも内容はかなり異なる(当たり前だが)。一番の違いは主人公が中年であることだろう。別れた妻とのやり取りや死んだ戦友への思い等、生々しい現実や悲哀があちこちでにじみ出ている。しかし子供と女性ばかりの工場で労働者賛美を謳いあげる場面は正直言ってツライものを感じる。非力な人間に精神論を説いても限界があると思うのだが…。

それとは逆に自分の小説の映画化の撮影現場ではキレイに描こうとするスタッフに不満を訴えるあたりは深く共感した。とくに亡くなった友人を追想する場面はじわりと悲しさがこみ上げてくる。この当時こういう悲劇は沢山あったのだろうなあ…。「誓いの休暇」と同じくこの主人公も戦場に戻るのだが、彼は生き延びることができるだろうか。いろいろと考えさせられた映画だった。(2003/09)

『わが友イワン・ラプシン』(1982ソ連)

1930年代の地方都市を舞台にした刑事ドラマ。刑事ドラマといっても日本やアメリカのそれとは全く違い、どちらかというとその当時の社会環境の方に力を入れて描かれている。この当時はちょうど内乱の痛手から回復しつつ時期であり、また粛清直前でもあるので、生活がそれほど重苦しくなかった頃かもしれない。というのは、出てくる人々の生活苦しそうだけど、働くことを厭わない明るさがあるように見えたから。ちなみにこの作品は庶民の生活をあまりに貧しく描写したということで公開禁止となったそうだが、しかしこの時代ならどこの国でもそう変わらないだろうに。日本だってたぶんこういう感じだったろうし。つくづくソ連という国は体裁を重んじるところだ。それにしても、ここで懸命に働いている人々がやがて大粛清に巻き込まれてしまうのかと思うと少々複雑な思いに駆られた。(2003/09)

『孤独な声』(1978ソ連)

つい最近『エルミタージュ幻想』が封切られたばかりのアレクサンドル・ソクーロフ監督の長編処女作。処女作だけあってかなり取っ付きが悪い。というか訳が分からなくなることが結構多かった。断片的には印象的な場面は多いんだけどねえ。せめてこの監督の作品をもう何本か観ていれば勝手が違ったかもしれないが、でも他の作品の解説を見てもやはり観る人を選ぶようなのでそういう監督なのかもしれない。といいつつ、機会があれば他の作品も観たいなあ。何か気になるものがあるのだ。それがなんなのか突き止めてみたい。(2003/09)

『鬼戦車T−34』(1964ソ連)

ドイツ軍の捕虜となり、新戦術の研究材料として戦車に乗せられた捕虜達が逆に戦車を奪ってドイツ領内を爆走していくという戦場ロード・ムービー(ってそんなジャンルがあるのか!?)。実話に基づいたとあるけれど、本当にこんなこと可能だろうかというシーンが多い。まあその分痛快さがあって楽しかったけれど…。戦争を題材にしたロシア映画でもこんなに娯楽性のある作品があるとは思わなかった。といってもさすがにラストシーンは…だったけど。でもこのラストはよかったなあ。まるで手塚治虫が描きそうな終わりなんだもの。(2003/09)

『道中の点検』(1971ソ連)

ドイツ軍の捕虜となったために生き延びるためにドイツ軍協力者となったものの、耐え切れずバルチザンに投降したが裏切り者の烙印を押されてしまった男の物語。体制批判な内容と取られたために製作後15年間封印されていたものだとか。確かにこの物語には体制への怒りがある。一度でも裏切り者とみなされた人間への周囲に冷たさ。死を持って罪を贖わせるだなんてまるで魔女裁判のようではないか。他に選択の余地も無く追い込まれていく男の姿が哀れでしょうがない。

あと橋の爆破のシーンが忘れがたい。捕虜で満載の船が通り過ぎるまで待つという姿勢はすばらしい。これこそ本当にヒューマニズムだ。名も無き人々を踏みつけはしないという監督の主張を感じた。(2003/09)

『子犬を連れた貴婦人』(1960ソ連)

ずいぶん前にNHKで放映したのを見ているのにすっかり忘れてまた見てしまった。ボケてるなあと反省しきり。それはともかく、何度見てもやるせない話である。とくに主人公を取り巻くこの閉塞感は思わず我が身と比べてしまうほど真に迫ってくる。何かに困っているわけじゃない。でも確実に何かが足らないのだ。これなら恋に落ちるのも無理はない。せめてそれぐらいのことでもなければ生きる意味を感じられないかもしれないから。しかしどう考えてもこの恋に救いはなさそうだけど…と原作でも同じことを感じたなあと思ってみる。(2003/09)

『ハムレット』(1964ソ連)

『リア王』と同じコージンツェフ監督作品。『リア王』もそうだったけど、これも正々堂々とした演出で圧倒された。主演はなんとあのインノケンティ・スモクトゥノフスキー!ロシア映画というと真っ先に思い浮かぶ人なので、これはものすごく嬉しかった。それにしても若い。いや、ハムレットとしては少々年を食っている感も無きにしも非ずだが、髭面しか記憶にない身にはこの姿は眼福。うーん、やはりこの人は好きだなあ。音楽は『リア王』と同じくショスタコーヴィチ。シェークスピアに相応しい壮麗さでこれまた嬉しかった。(2003/09)

『デビュー』(1970ソ連)

パンフレットで「ジャンヌ・ダルク映画史に風変わりな1ページを加えた」とあったのでジャンヌ・ダルクがメインなんだろうと思いきや、ヒロインの恋愛問題のほうが中心だったのには正直驚かされた。しかし、このヒロイン、素顔をジャンヌ・ダルクを演じているときの落差が激しいなあ。どうしてあんな男をわざわざ引っかけるのだろうか。自ら不幸な道を選んでいるとしかいいようがない。ジャンヌ役の時が気高くあるだけに、この普段のダメっぷりはある意味笑えてしまう。でも反面、妙にたくましいところもあり、このおおらかさがロシア人気質なんだろうなと思ったりもした。(2003/09)

『リア王』(1971ソ連)

実言うと、この作品はあまり期待していなかった。だってシェークスピアといえばイギリスだし、それにロシア語のシェークスピアというのはどんなものだろうかと今ひとつピンとこなかったので。でもこれは大間違いだった。重厚で緊張感あふれる演出に加え、俳優陣も並々ならぬ力量の持ち主ばかりでどの場面でもこれでもかといわんばかりの迫力に満ちていたのだ。こんなに『リア王』が面白い物語だとは思わなかった。出演者はどれも芸達者揃いだが、なかでもコーディリア役のバレンチナ・シェンドリコワの可憐さがいい。この抑制のきいた悲しみは印象的だった。またショスタコーヴィチの音楽もすばらしく、この時代のソ連の芸術性の高さがうかがえる。(2003/09)

『シティ・オブ・ゴッド』(2002ブラジル)

1960年代からブラジルのスラム街に住むストリートチルドレンの実態をドラマ風に綴った「真実の物語」。内容はかなり重い。しかし描き方が乾いているせいか悲壮感はそれほどない。むしろ時々コミカルに見せていて、これはある意味ブラジル版「ぼくんち」かも。でも、あれよりもやはりキツイ描写は多いが。とくに子供の出てくる場面に言いようもないほどの凄惨さがある。仲間に入れる儀式として友人を撃ち殺させるところとか(両方とも年端の行かない少年であるだけに惨さが鮮烈)ラストシーンの読み書きも出来なさそうな少年達のしかし拳銃の扱いだけは知っているところとか。それにしてもこの少年達の将来の夢はあまりに寂しい。貧しいということは選択の余地が少ないことなのだということを改めて感じさせられた。(2003/09)