読書感想ノート(2003/9-10)

『釣魚雑筆』S.T.アクサーコフ(岩波文庫)

19世紀中葉の作家アクサーコフが自身の体験を生かして書いた釣りのエッセイ。釣竿の選択から始まって餌の選び方や釣り方などとにかく釣りのノウハウがいっぱい記されている。といっても書かれたのは19世紀。しかもロシアなので今の時代にはあまり参考にはならないだろうが。それはともかく要所要所に出てくる文明批評が楽しい。どんな趣味でもそうだけど道を極めようとすると、こういう考え方になるのだろうな。正直言って釣りには全く興味がないので退屈な部分も多かったけど、時々膝を打ちたくなるような金言があってそれなりに面白かった。それにしても釣り損ねた魚のことを「今日までこの損失を平静な心で思い出すことができない」には深く共感した。いつの時代でも逃げた魚は大きいのだ。(2003/10)

『薔薇の雨』田辺聖子(中公文庫)

若くはない年頃の女性を主人公にした連作ラブ・ストーリー。コジンスキーで鬱々とした気持ちになったので気分転換にと久しぶりのおせいさんと手にしてみたのだが、やはりいい。読みやすいし、それに読後感もとてもいい。さすがに風俗的に古びた感じはするけれど、この暖かい雰囲気にはすっかり和んでしまった。こうしてみると大阪の言葉って実に味があるなあ。リズムがあって柔らかい。TVの影響で大阪の言葉には喧しいというイメージしかなかったので、こんなにも大人の恋物語に似合うとは思わなかった。やはり言葉というのは使う人次第なのかもしれない。(2003/10)

『異郷』イエールジ・コジンスキー(角川書店)

本当は『異端の鳥』が読みたかったのだが見つからないので先にこちらから読んでみる。内容はとくにストーリーがあるわけでもなく様々なエピソードを積み重ねてひとつのイメージを築き上げているという総じてなかなかとらえどころのない物語だった。ただし後味がよくないエピソードもあって妙に引っかかってしまう。とくに女性への暴力的な性表現が多いのには正直言って生理的にかなり不快だった。この屈折した感覚は東欧系だからなのだろうか。それとも共産主義への怒りがこういう形で現れたのだろうか。(2003/10)

『俳句殺人事件』斉藤愼爾編(光文社文庫)

俳句にはミステリーが似合うという視点で編まれたアンソソロジー。確かに17文字で全てを言い尽くす俳句は読む側からみれば解読を要する暗号のようなものかもしれない。編者は深夜業書社編集長の斉藤愼爾氏。俳人でかつミステリーにも造詣が深いだけあって作品の選択がすばらしい。戸板康二、塚本邦夫、中井英夫は当然かもしれないが、高橋義夫や勝目梓まで入っている幅広さはさすがといおうか。どの作品もそれなりに面白かったけれど、一番印象に残ったのは新宮正春「旅の笈」。芭蕉を探偵役にした連作ミステリの中の一編だそうだが、余韻の残るラストがよかった。ところでこの本はページの下に斉藤慎爾氏が選んだ俳句が掲載されているのだが、中にはどきっとするような句もあって時々小説よりもそちらのほうが気になってしまうときもあった。なるほどミステリーと俳句はよく似合うかもしれない。(2003/10)

『恋』小池真理子(早川文庫)

浅間山荘事件を私は覚えていない。年齢的にはニュースを見ていてもおかしくないのだが、どうやら我が家ではあの中継は見なかったようだ(そういえば私の両親はへそ曲がりな性分だった)。それはともかく、この作品はまさしくあの時代の匂いで満ちている。いや、あの時代だからこそ成立した物語といえようか。よくぞ学生闘争を美と退廃に結び付けられてものだ。その発想もさることながら、このラストに至るまでの見事な構成にはただひたすら酔わせてもらった。不満な点が無いわけではないけれど、それは巻末の阿刀田高氏の解説で的確に指摘されているのでこれ以上言うことはない。それにしてもこの解説もすごい。ここまで厳しく批評されていると解説というより選評のようだ。しかし厳しさの裏側に愛情を感じられて、文字通り最後に一頁まで楽しめる一冊だった。(2003/10)

『クラゲの海に浮かぶ舟』北野勇作(徳間デュアル文庫)

古典から一気にSFへ。うーん脈絡のない読み方をしているかもしれないな。SFだけど、どことなくノスタルジックな雰囲気が漂う話である。内容は人工生物の研究をしていたぼくは会社の方針と対立して辞めてしまう。その際会社によって研究に関する記憶を破壊されてしまうが、そのために…というもの。といってもこれは文字通り<あらすじ>で物語りは少しずつ変形していく。途中まではなんとなく先行きが読めたのだが、最後は結構意外な結末で予想以上にほろ苦かった。ところで、この人工生物の研究所ってまるで吾妻ひでおの世界みたいだ。『不条理日記』とか『海から来た機械』とか。懐かしさを感じたのはそのせいもあるかもしれない。(2003/10)

『デカブリストの妻(ロシアの婦人)』ネクラーソフ(岩波文庫)

『美わしき幸せの星』を観た影響で手にした本。19世紀ロシアを代表する詩人ネクラーソフによる長編叙事詩。詩文なのでリズムのある美しい言葉に満ち溢れている。文語体の物々しさもここでは一切感じられない。実話に基づいた悲しい物語が当時の体制への怒りも含めて語られていく。この表現性の豊かさにはただひたすら圧倒された。最近古典を読むことはめっきり減ったけれど(なにせ魅力的な新刊が多いので)、得るものの大きさを思うとたまにはこうして読んでみたほうがいいかもしれないなあ。(2003/10)

『サハラに舞う羽根』A・W・メースン(創元文庫)

映画が観たくて読み始めたのに結局映画のほうは見損なってしまった。残念だ。そのうちビデオ化されるだろうけど、こういう作品はやはりスクリーンで観たかったなあ。

イギリス正統派冒険小説の名に相応しい格調あふれる作品。繊細な少年だった主人公がある恐怖を抱いた瞬間から後にそれが引き金となって苦境に落ち込み、やがてそこから抜け出すためにとんでもなく過酷な冒険に挑戦していくのだが…という物語。それにしてもなんて見事な構成だろうか。主人公の複雑な心理を余すところなく描きぬき、かつ読者を最後まで一瞬たりとも飽きさせないのだ。これほどまでに悲しく気高い物語を読んだのは久しぶりなので、読んでいる間本当に嬉しくてしょうがなかった。過去に抄訳で出ているのだが(実はその本も持っているが)、完訳版が出るのを待っていてよかった。本を読んでないことを喜ばしく思うのは変だけど、この本に関してはとてもラッキーなことだったと思う。(2003/10)

『斧』D・E・ウェストレイク(文春文庫)

翻訳では『鈎』よりもこちらのほうが先なのになぜか後回しにしてしまった。だって既に読んだという人達の反応がどれも芳しくなかったから。後味の悪い話なんだろうなと覚悟を決めて読み始めてみたら、それほど悪くはなかった。ただし相当怖い話だったが。『鈎』よりこちらのほうが怖いと感じたのは私だけではあるまい。リストラされた男が再就職のためにライバル達を殺していく…という設定に身につまされたという人間は結構いるような気がするから。それにしても、この主人公の言い分のなんと説得力のあることか。どこかが間違っているはずなのに反論できない。むしろ自分がもしこの状況にいたらやっぱりと思ってしまうもの。病んでいるのは人間と社会のどちらなのだろうか。(2003/10)

『黒猫遁走曲』服部まゆみ(角川文庫)

ベテラン編集者の愛猫失踪事件と売れない俳優が引き起こした殺人事件が奇妙な形で交差するユーモアタッチなサスペンス。とにかく猫の使い方が上手い。この話が陰惨なものでなくドタバタ劇に成りえたのは猫の存在が大きいように思える。最後は少々拍子抜けするぐらいあっけなかったけど、元々そんな大掛かりな話じゃないから、こういう締めくくりでよかったのかもしれない。それにしてもユーモアタッチといっても、愛猫家には笑えない内容だろうな(たぶん)。(2003/10)

『悪徳の街』北見氷太郎(廣済堂出版)

この作者は後ろの紹介文を読むと、文春の新人賞で佳作を取った北海道の歯科医師だとか。またS.R.の会員でもあるらしい。この本の表題作は「推理ストーリー」に掲載され、映画にもなっているそうなので当時はそれなりに知名度があったかもしれないが、今となってはほとんど知る人もいないだろう。とりあえず経歴に惹かれて読んでみた一冊。本格ハードボイルドだそうだけど、こういうのは苦手だなあ。とにかく女性に冷たいのだ。そりゃ悪女に対してはある程度しょうがないと思うけど、全く罪の無い女性がむごたらしく殺される描写は生理的に嫌だ。ストーリーはそれなりに楽しめるものだけにこの点が惜しかった。(2003/09)

『都立水商!』室積光(小学館)

水商売専門の都立高校という設定がすばらしい。バカバカしいと言ってしまえばそれまでだけど、妙に説得力があるのだ。でも内容はいたってフツーの学園物。こんなに面白い設定なのだから、もっといろいろと脱線してほしかったなあ。甲子園のくだりのあたりとか。登場人物も個性豊かで楽しいキャラばかりなので、できればその後のこともきっちり書いてほしかったし。でも読んでいて実に楽しい一冊だった。この内容ならいつかTVドラマか映画化でもされるのはなかろうか。実写版で見たいなあ(無理そうなな場面もあるけど)(2003/09)

『バカンスは死の匂い』モニック・マディエ(角川書店)

バカンスでコルシカ島を訪れた若い女性が巻き込まれた怪事件。フランス推理小説大賞の受賞作だそうだが、ずいぶん薄味な内容でこれが受賞作だとするとフランス・ミステリの方向性とは…と頭を抱えたくなるような内容だった。そもそも事件が小粒。登場人物も少ないので途中で大体の流れが読めてしまう。サスペンスだからと自分に言い聞かせても物足りないのは誤魔化せない。作者は純文学畑で有名な中堅作家らしいのだが(ただし別名義だとか)あまりミステリを好きではないのではといらぬ詮索をしてしまう。こういう作品はむしろ映像にしたほうががそれなりに楽しめるかもしれない。(2003/09)

『感 タッチ 触』鈴木いづみ(廣済堂ノベルズ)

鈴木いづみのポルノ小説。まあ、年代が年代なので描写はいたっておとなしめなのだが、風俗がさすがに古い。とくに音楽関連は作者がこだわりのあるジャンルなだけに好みがはっきりしているのだが、それだけに今となっては古すぎるという感が否めない。つくづく時代を感じてしまった。内容はさほど語るべきものはなし。こういう時代もあったんだなというぐらい。ただしヒロインの元恋人の身勝手さはなかなかリアルで、今でもいそうなタイプだと思った。(2003/09)

『天使はモップを持って』近藤史恵(ジョイ・ノベルズ)

女性清掃作業員と男性の新入社員が登場する連作ミステリ。清掃作業員といってもオシャレな若い女の子で作業員に見えないところがミソ。若いけどしっかりしている彼女と、彼女より歳は上だけど新生活に不慣れでどこか頼りない新入社員の彼という二人の対比が面白い。中には生理的に怖い話もあるけれど、作者の視点が暖かいせいか、どんな事件でも読後感は爽やか。うーん、それにしてもこういう作品を読むと掃除の手を抜いちゃいけないなあと反省。気持ちよく生活することってそういうことだもんね。(2003/09)

『銀座やぶしらず』戸川幸夫(光書房)

傾向の異なるものを集めた短編集。なんとSFまで収録されている。戸川幸夫がSFまで書いているとは寡聞にして知らなかった。ただし肝心の内容のほうはさすがに古びていて評価する気にもなれないという代物だったが…。八篇収録されている中で最も印象に残ったのは「他社の人」と「羚羊」の二編。「他社の人」は子会社に飛ばされた新聞記者の悲哀を下山事件と絡めて描いたもの。「羚羊」は大手新聞社のデスクがカモシカの写真を撮るために苦労するという話。両方とも今なら横山秀夫が書きそうな内容である。しかも、横山秀夫と戸川幸夫の二人の描く新聞記者の世界はあまり違いがない(…年代的には半世紀ぐらい違うのに)。つくづく新聞記者という仕事は大変そうだ。(2003/09)

『スモールボーン氏は不在』マイケル・ギルバード(小学館)

これも期待しながら読んだ一冊。やはり予想以上に面白かった。とにかく設定がいい。出だしがいい。会話もいいし、トリックもすばらしい。いい事尽くめの一冊である。こういうのを読むと海外ミステリファンであることの幸せをしみじみとかみ締めてしまうなあ。それにしてもこの会話の運び方の上手さはなんと形容しようか。『捕虜収容所の死』もそうだったけど、機智とユーモアに富んでいてこれぞイギリス、紳士の国だという思いを満喫させてくれる。まさしく大人の遊び心あふれる作品だった。(2003/09)

『魔性の馬』ジョゼフィン・ティ(小学館)

周囲で読んだ人がほぼもれなく絶賛していたので期待して読んでみたが、確かにとても面白かった。ミステリとしての仕掛けはあまりない。というか大抵の人にはこの物語の顛末は途中で見えてしまうだろう。だけど、そんなことお構いなしに楽しいのだ。何が楽しいってそれは人物描写によるのかもしれない。暖かいユーモアに包まれているせいかイヤミな人物ですら微笑ましく見えるのだ。これはスゴイと思った。大体このストーリー自体がちょっと間違えると大変後味の悪いものになりそうなのにそんな気配は露ほどに感じさせない。今更なんだと言われるかもしれないけど、やはりジョセフィン・ティはいいなあ。ますます好きになってしまう。(2003/09)

『まぼろし綺譚』今日泊亜蘭(出版芸術社)

今日泊亜蘭と言えば忘れ難いのが中学生の頃読んだ『光の塔』。SFに今では古めかしい言葉となってしまったべらんめい調が似合うとは思わなかったので、その取り組み合わせがとても新鮮だった。以来、今日泊亜蘭というとべらんめい調というイメージだったのだが、この短編集を読んでこんなにも美しい言葉を操れる人であったことを遅まきながら知った。とくに「幻想と浪漫と」の四編はどれも泉鏡花のような幽玄な世界で、失われたものへの哀愁が切なかった。水島爾保布の評伝によると今日泊亜蘭はSF作家と呼ばれるのを嫌っているそうだが、確かにこの人の本質はSFではないかもしれないと思った。(2003/09)

『悪徳の唇』青柳友子(サンケイ出版)

屈折した性癖を持つヒロインがふとしたことから上司の息子と恋に落ちる物語。女性心理の複雑さをこれでもかというぐらい描いているのに不思議ぐらい生臭さを感じない。これは性描写があまりしつこくないせいだろうか。戸川昌子ならもっと念入りに描くだろうと思うと、ここら辺がこの作者の個性なのかもしれないなあ。雰囲気的にはF・サガン「悲しみよ今日は」に似ている。もっともあれとは全く逆の状況だけど。余韻の残るラストが秀逸でヒロインの悲しさが伝わってくる。そう失ったものは還ってこないのだ。(2003/09)

『美女誕生』平岩弓枝(角川書店)

美容整形外科医の助手をしている女性と呉服屋の若旦那がコンビとなって事件を解決していくという連作推理短編集。舞台が美容整形外科医院なので容姿に関する事件が多いが、一番興味深かったのは表題作の「美女誕生」。突然、女性になりたいという男性を巡る騒動話で殺人は起こらないが、このフロイトばりに精神分析が楽しい。まるで三島由紀夫『音楽』のよう。殺人が絡む話もあるけれど、これはミステリ的には物足りず、意外性が乏しい。ただ女性の心理の描き方がさすがだった。(2003/09)

『アマチャ・ズルチャ』深堀骨(早川書房)

帯の言葉がスゴイ。なんと「文芸復興、最後の希望」なのだ。これが本当に最後の希望かどうかはともかく読んだ人間の感覚をどこか狂わせるほどの破壊力に満ちた文章であることは間違いない。一見落語のように歯切れのいい、だけど少々古めかしい言い回しの数々についほだされて和みそうになるが、作者はそれほど読者に優しい人ではないのだ。それはこの本に含まれている作品のどれでもいいから一編でも読んでみるとお分かりになるだろう。私としてはとくに「闇鍋奉行」あたりをオススメしたい。ええもう、よくぞここまでやってくれたものだと冗談ではなく本当に心から感動した。といいながらも、ここまでくると「最後の希望」というより「最終兵器」じゃないかなと思ったりもしたのだが…。生活に潤いが不足している方にぜひ読んでいただきたい一冊である。(2003/09)

『安楽椅子探偵アーチー』松尾由美(東京創元社)

安楽椅子が探偵役を務める文字通りの安楽椅子探偵もの。普通にこの設定を聞いたら、あまりの突拍子のなさに唖然としてしまうところだが、この場合は松尾由美なのでこの人ならどんな設定でも面白くしてくれるだろうという安心感がある。実際読み始めてみると予想以上に面白い。一見子供向きのように見えるけど、第三話を読んだら、そうでもないと思った。あのラストはある意味とても怖い。だけど、それだけに印象的。最終話で安楽椅子がどうして意識を持つようになったのかをきちんと理由付けしてくれているのもよかった。(2003/09)

『MISSING』本多孝好(双葉文庫)

『MOMENT』で気になったのでもう一冊読んでみたのだが、これは『MOMENT』より面白かった。もっとも『MOMENT』で感じた考え方の相違は相変わらず。どうもこの作者は年寄りに対して特別な感情があるように思えてしょうがない。とくに「蝉の証』でそう感じたのだが、私はこの話に出てくる老人にどうしても共感できない。というか、こういうやり方はあまり好きになれない。たとえどんな理由があってもだ。(2003/09)

『怪奇探偵小説傑作選9 氷川瓏集』日下三蔵編(ちくま文庫)

探偵小説と銘打っているものの、この味わいは完全に純文学系。芳醇でかつ濃厚な味わいに満ちた作品集だった。しかしここまで純文学的な作風だとは思わなかった。私が読んでいたのは「乳母車」と「睡蓮夫人」ぐらいなのだが、その二つの印象だとむしろ怪奇味が強いのだろうとぼんやりと予想していたので。収録作品の中では「洞窟」にとても驚かされる。確かに事件はあるものの、この屈折していく心理描写はまるでシムノンの「雪は汚れていた」のようではないか。誰にでもある心の闇をあまりにも見事に描かれていて、もし自分がこの状況なら同じことをしでかすかも…と思ってしまうほど。それ以外の作品もとくにラストが鮮やかで忘れがたいものが多かった。(2003/09)